ゴッホの絵画は、なぜ人の心をとらえるのか

名古屋画廊 ファン・ゴッホと日本近現代アート展 No.3

2024年1月、名古屋市伏見にある名古屋画廊で、「ファン・ゴッホと日本近現代アート展 №3」を観てきました。そこにはゴッホの素描つまりデッサンが展示され、小さな作品ながら力強い存在感がありました。そこで、名古屋画廊の代表取締役で作家と作品について長年携わってこられた中山真一さんに、〝ゴッホの素描の力強さ〟についてお話を聞きました。 写真:ファン・ゴッホ《歩行者のいる風景》1885年頃 鉛筆・コンテ、紙

ゴッホ展会場風景

 

 

 

 

 

 

作家活動は10年間のみ。そのうち6年を素描に励んだゴッホ。

ゴッホが常々言っていたのは〝基礎が出来ていない作家の作品はよくない〟ということ。オランダ生まれのゴッホは16歳から7年間、グービル画廊で画商をしていた。元々ゴッホ自身は読書家で見識が高かったという。様々な人生経験を経て、美術に一生を捧げる決心をしたゴッホは、最初の6年間を素描に打ち込んだ。その頃の作品は、《歩行者のいる風景》のように暗く力強いものが多い。自然主義の風景画・農民画を描くミレーなどの影響を受けていたという。

ゴッホがパリへ出てきた1886年には、モネなど印象派の時代が終わりかかっていた。周回遅れのランナーのような33歳のゴッホは、4年後に37歳で亡くなるまで、どのような制作活動をしてきたのだろうか。

高め続けた〝心の言葉〟を表現した絵画。それが人の心を打つ。

ゴッホは生涯に2000通の手紙を書いたが、1885年の手紙で「芸術や人生について真剣に考えている人たちに何かを真剣に考えてもらえるような絵画を描こうとしなかったら、僕は自責の念に駆られていたことだろう」と語っている。彼は1889年には、アルル、そしてサン=レミからオーベル=シュル=オワーズへと移り住み、精力的に何百枚もの絵を描いてトップランナーに躍り出た。その形にゴッホが心奪われたという糸杉を描いた名作《星月夜》も誕生。しかし翌年の1890年、孤高で努力家のゴッホは、自らその命を絶った。

<明治時代のロマン主義>

青木繁《落葉径》

青木繁《落葉径》1902年 鉛筆、淡彩、紙

ゴッホ没後10年の1900年代、日本ではロマン派とも呼ぶべき青木繁や坂本繁二郎などが活躍。ロマン主義は古典主義に対立する思潮で、情緒や自然の重視、創造的個性の尊重などを掲げた。

スタッフ/広瀬由利子(nickname:ゆりば)二世帯同居で、孫育て中です。

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